「新百合ヶ丘」と聞くと、洗練された街並みや文化的な雰囲気を思い浮かべる方も多いかもしれません。実際に訪れると、美しい緑と整った都市計画、そしてアートに触れられる空間が自然と共存していて、「なんてバランスの良い街なんだろう」と感じずにはいられません。
けれど、そんな新百合ヶ丘にも、実は戦国時代から続く“歴史の深み”があることを知っていますか?
この記事では、新百合ヶ丘の過去をたどりながら、なぜ今のような街になったのかを一緒に探っていきたいと思います。
戦国時代の面影を今に残す地名の数々
新百合ヶ丘の一部である万福寺や古沢には、なんとも物騒な名前が残されています。「陣川(じんかわ)」や「矢崎(やざき)」など、どう考えても戦いを連想させる名前ですよね。
調べてみると、やはりこれらの地名は戦国時代の合戦に由来しているとのこと。特に「矢崎」は、戦で矢が刺さった場所という伝承まで残っているそうで、現代の平和な風景からは想像がつきません。
こうした地名が街にさりげなく残っているのは、なんともロマンがあります。通勤や通学で日常的に通る場所に、歴史が息づいていると考えると、急に景色が違って見えてくる気がします。
出典:しんゆり山手の会
駅開業とともに始まった“農住都市”という挑戦
1974年に小田急線の新百合ヶ丘駅が開業してから、このエリアは大きく変わっていきます。それまでは主に山林だった場所に、川崎市と小田急電鉄が手を組んで“農住都市構想”という実にユニークな開発方針を掲げたのです。
これは、住宅地の中に農地や緑地を意識的に残すことで、自然と共存できる都市を目指すというもの。正直、今でもこんな考え方を持った開発は珍しいと思います。
この頃から、ただのベッドタウンではない、新百合ヶ丘らしい個性が芽生え始めたんだなと感じました。
“芸術のまち”へ、静かに進化していく街
新百合ヶ丘を語る上で欠かせないのが、「芸術のまち」としての顔です。
日本映画大学や昭和音楽大学といった教育機関が集まり、川崎市アートセンターでは映画祭や演劇など、市民が気軽にアートと触れ合える環境が整っています。
私は実際にアートセンターで開催されていた小規模な映画上映に行ったことがありますが、地域の人たちがフラッと集まって、作品を囲んで語り合う空気がとても印象的でした。
大都市でも郊外でもないこの絶妙なスケール感が、新百合ヶ丘の文化的魅力を育てているのかもしれません。
緑と共に暮らす日常のありがたさ
街づくりの中で、自然との共存がきちんと意識されている点も、この街を訪れて特に感じた魅力の一つです。
万福寺檜山公園や弘法松公園の緑、そして春になると麻生川沿いの桜並木が圧巻です。
都市計画の中に自然がしっかりと組み込まれていることで、日々の暮らしに「余白」や「癒し」がある。これは本当に贅沢なことだと思います。
おわりに:歴史と未来が交差する場所、新百合ヶ丘
新百合ヶ丘は、一見すると新しく整備された街という印象が強いかもしれません。けれど、実際にその成り立ちを知ると、計画と偶然、歴史と創造が折り重なる“深み”のある街だということが見えてきました。
戦国の記憶を持ち、都市と農業が共存し、文化が育まれてきた新百合ヶ丘。
そんなこの街は、これからも「暮らす人が街を育てていく」場所であり続けるのだと思います。
